左の音










 窓硝子の向こうを民家が瞬く間に流れていく。座席はときどき大きく弾み、肩へもたれかかる頭がその度、置き場を直す。他に乗客はいない。

 耳を澄ますと、車輪が線路の継目を越える音に金属の響きが混ざっていた。集電装置が架線をこすっているのだろう。町並みの隙間から差し込む夕陽が眩しい。

 首をそらせて、隣に座る同級生の顔を見た。長い前髪の間から閉じた目がのぞく。俺はいつもこの御方の左側にならぶ。右は綿布で隠されている。だから単純に、こちらでないと表情が読めない。

 高校へ入学した当時、最初に声をかけてくれた相手だ。視線はどうしても痛々しそうな眼帯へ向かったが、クラスメートと親しくなる機会を失うまいと必死で口をひらいた。政宗殿は俺が気に入ったと言い、家の方角まで同じであったから、以来ずっと帰り道を共にしている。

 半年も経つと、また別の友人を作ることが出来た。しかし、放課後に乗り込む電車だけは変わらない。

 政宗殿は自分のことをあまり話さない性質らしかった。右目の怪我も詳しく知らない。訊ねたが、低い声で躊躇ったあと「ファッションのようなものだ」と返された。言いづらい理由なのだろう。

 そのときから、かもしれない。なんとなくこの御方に距離を感じている。

 平生の学校生活で常に、というわけではなかった。いつも俺の言葉を引き出すような話し振りなので、思うままに答えるが、政宗殿は「飽きない奴だ」とよく笑う。きっと、嫌われてもいない。

 けれど気分で行動されることが多々ある。今も、両耳から黒い紐を垂らし、片手に再生機を握っている。最近は電車に乗ると無遠慮にもたれかかってきて、唯一見えている左目さえ閉じてしまう。

 俺は流行の歌や音楽などわからない。だからその小さな機械の中に政宗殿の好きなものが詰まっていようと、どう素晴らしいのか誉めることすらできないだろう。

 ただ大人しく、過ぎていく民家の屋根や、電信柱に掲げられた看板の文字を追ってみる。そしてぼんやりしている間に到着する。俺のほうが先に降りるので、頭を下げ「また明日に」と発するときだけ、黒い紐を引き抜く。

 そう彼は決して俺の言葉を遮るために耳をふさいでいるのではなかった。

 話しかければきっと沈黙も生まれない。なのに、肩に委ねられたこの重さだけで充分だと思えてしまうようになった。息苦しくなかった。

 艶のある黒髪が俺の肌をくすぐる。埋まっていないはずの距離が、こんなにも近い。


「Hey,幸村」


 閉じていた瞼がひらかれた。三白眼に見上げられる。


「な、んでしょう」


 俺は少しつかえた。膝上の学生鞄を強く掴む。政宗殿は意に介さず、手の中の再生機をいじっていた。


「これから俺の一等好きな曲が流れる。アンタにも聴かせてやるよ」


 黒い紐の先端についた装置を差し出される。片側は政宗殿の左へ繋がっている。

 俺は首を振った。


「某、音楽はその」

「No problem. 気に入ったか、気に入らねぇかでいい」


 渋り続けると、首の裏に腕が伸びてきた。顔をてのひらで横から抱くように押さえられ、装置が耳に入ってくる。派手な弦楽器の音が聴こえてきた。次々と頭へ流れ込む響きは複雑に混ざり合い、速い旋律に激しさを覚えた。詞は英語のようだ。

 政宗殿は幼少のころに海外で暮らしていたため、日本語よりも異国の表現をしがちだ。価値観も俺と違うし、今の暮らしに退屈しているのではないかとも思う。

 俺がわずかでも、満たすことができたらいいのに。


「どうだ?」


 かすれた声が問うてくる。黒い紐は長さが無いため、尻の切れ込んだ吊り目がすぐそばにある。政宗殿の鼻筋を視線で辿る。自分のこめかみに黒髪が触れている。

 ドッドッドッ。

 再生機へ通じる装置ではなく、身体の奥から拍子が起こる。唾液が口の中に湧き、咽喉が狭い。呼吸をするのがつらくなった。


「は、あの」


 短く吐き出して答えた。


「何やらドという音が鼓膜につきまして」

「ド? アンタ音程わかるのか」

「いえ、重く胸を殴られるかのような」

「Drumか? Bassか?」


 再度、首を振った。専門的な単語で問われれば、尚更わからない。やっぱり、俺ではこの御方の相手はつとめられないのだろうか。

 ドッドッドッ。

 眉をしかめる。繰り返されるのはあの音だ。俺は躊躇いがちに言った。


「う、うるさくあります」

「Nonsense!」


 政宗殿は顔を離して声を上げた。細めた隻眼でこちらを見ている。咄嗟に「申し訳ござらぬ」と返すと、溜め息をつかれた。

 互いの耳から装置を外して、手の中の機械を操作し、黒い紐とまとめて学生鞄に放り込む。

 そして足を組み直し、また俺の方へ体重を預けてきた。


「音楽はもうよろしいので」


 訊ねると、短く呟いて頷く。さほど怒った様子もなさそうに続ける。


「アンタがニブいのは、わかってたんだ」

「は」


 気の抜けた声を漏らしてしまった。音楽の話で盛り上がろうなど、はなから期待されていなかったということか。俺は改めて、すみませぬと呟いた。すると今度はいささか強く「謝ってんじゃねえよ、バカ」と返された。

 胸を殴るような響きは気付くと消えていた。車体の揺れる音がする。かすかに金属の撥条が鳴る。

 政宗殿の髪は橙の光を照り返す。隠れていない左目はどこか遠くを眺めており、俺も同じように町並みのよぎる窓硝子へ、姿勢を正した。










  2010/5/30

 政宗殿は幸村の気を引きたくて音楽など聴いてみたけれど
 幸村は遠慮して話しかけられない。
 じゃあと接近戦に持ち込んでみたらまさかの「うるさい」に
 ムードを壊されて失敗だと思い込む政宗殿。
 実はバリバリ意識されているゆえとも知らず。