法螺のまこと











 鍛えられた胸筋は、三成の掌に確かな弾力を返した。やや伸びた爪を立てて引くと、赤い線が走る。白くなった皮膚の合間に盛り上がる痕を、さらに掻く。幸村の肩が跳ねたようだった。傷ができ、砂のように細かな血がふくらんだ。

 ひとの肌はこれほど頑丈なものであったか。それとも自分が加減しているのか。骨や臓器を包んだ肉がいとも易く、動かない塊となることをこの手が覚えている。

 秀吉様、と口の中で唱えてみる。一振りで風が起き、兵を薙ぎ、裏腹なやさしい力で「励め」と撫でてくれた腕は、しずくで濡れ、いくら揺すっても垂れ下がるばかりだった。民草を地へ臥せる怒号が、ふだんはとても穏やかに話すことも知っていた。声が返ると期待し、耳を澄ませても、雨の音が邪魔でなにひとつ拾えない。

 思い出して奥歯を噛む。細い指先に力がこもる。眼前の腹筋へ立てた。内腑をえぐり、かき回したくなった。幸村の咽喉からこらえるような声が漏れる。

 あのひとがいない世界でのうのうと息づくすべてが憎い。脈打つ己の鼓動さえ吐き気がする。

 ふと、注がれる視線に三成は静止する。褥で仰向けになる幸村が、やや尻の上がった両眼をひらいている。日に当たると茶へ透ける瞳は、闇の中で黒々と黙す。互いに夜目がきくからと、寝間には蝋燭も月明かりもなかった。

 同盟を組んだ真田幸村が、傾く自国を空けてまで石田軍に協力的なので三成はいぶかっていた。豊臣に下ったつもりはないと言うからだ。彼が上田城で伊達政宗からの一撃に身を挺じた件も、確かに誓いを立てたのだから当然であるものの、まことのこころまでは読めない。

 幸村は三成の憎む徳川家康と対立し、徳川と組む伊達は宿命の相手らしい。この同盟は若虎の踏み台か。利害のみで繋がるならばなお納得できるはずが、自尊心が許しきらない。
 三成は馴れ合いなど、もとから好かなかった。結ばれる関係があるなら服従という形が相応しい。己を滅して尽くすことこそが「私」であるのだ。少なくとも彼自身は秀吉に対してそうだった。

 だが本当は向けた情にそむかれるのが怖いのだと、大谷吉継は見抜いている。旧友は盟約という鎖に意味がないと知りながら、裏切るなと、すがるように言う。

 昨夜、大谷が三成を諭した。

「調略すればよかろ。我と違ってぬしは不得手だろうがな。あの徳川ができなんだことだ」

 家康の名で唆されたゆえに、幸村を組み敷いている。薄傷の走る肌がいまは無防備だ。彼は武田の象徴である赤い具足を脱ぎ捨てていた。

 けれど三成は幸村を謀りたいわけではない。東軍につくなと怒鳴りはしても、武田を切って捨てるような条件を出して脅す真似も思いつきはしない。

 ただ家康が幸村の西軍加盟に少なからず傷心し、未だに誘致をあきらめていないと聞いていた。彼の欲しがるものを手に入れたいのかもしれなかった。

 唇を引き結ぶ三成へ、爪を立てられたまま幸村が問う。

「お辛いのか」

 褥の上に四肢を広げながら、拳だけは握っていた。

 銀髪の奥で切れ長の双眼が見ひらく。ゆらりと怒りが燃える。

 かつてあのひとが生きていたころの、同胞が重なった。危ない、と敵兵から庇われた。そうやって、いかにもお前が心配なのだという顔をして、裏切るのだ。

「甘言を吐くな」

 三成は指先を腹から幸村の手首へ移した。覆いかぶさる姿勢で彼の首筋を噛む。犬歯がくい込む。

 幸村は息をのみ、びくりと跳ねた。しかし、あらがう力を三成は感じない。

 口を離すと点々と跡が残る。唾液で濡れた輪形をじっと見おろす。この男はさして気にもならないと言わんばかりに、挑むような眼を崩さない。

 憎い仇がよみがえる。

 三成は口をひらき、今度は肩へ喰らいついた。悲鳴さえ聞こえなかった。

 胸へ、腕へ、歯を立てる。けれど噛み切るほど力はこもらず、胃袋へ落ちていく感触もあるがずがない。

 押さえつけていた手を放すと、やはり褥へ縫われたままだ。ただ幸村の瞳が闇の中でも黒く輝いて、三成は鼻のつけ根に熱が集まる。

 誤魔化すように逞しい片足をすくい上げ、膝をかじり、脛を舐めて、また噛んだ。

 ふくらはぎや腿の内、へそまわりの柔らかい皮膚に触れるときだけ、幸村はちいさく震えた。
 この忠誠が家康の得られなかったものか。

 三成はひたすら繰り返したが、満ちるものはなかった。

 奪われたのだから奪えばいい。しかし「奪われた」けれど秀吉が「己のもの」であったかといえば違う。

 己は秀吉のものだった。いや、三成がそう望んだ。秀吉を欲しいとも思わなかった。彼は尽くすべきひとであった。

 ふと、三成はいま、自分が「欲しがっているのか」と我に返った。大谷の指示通りに真田幸村を試し、屈させようとしている。「欲しい」という感情はよくわからない。

 なぜなら、これまで在るがままで満足していたからだ。仕えるべき主君は威光の頂点にあり、志を同じとする友が控えていた。ひたすらあのひとのために在れた。

 なのに、雨の記憶ですべてが掻き消える。

 三成は声にならない唸りを漏らした。幸村の鎖骨を食む。歯が窪みに埋まり、はじめて瞳が揺れた。

 無抵抗な体躯が硬くなったのを感じ、三成は昂揚した。ぎりぎりとあごに力を込める。

 かたわらで、爪の先が幸村の肩へ埋まっていく。掻くのではなく、どこまでが届く場所なのかと推し量るように立てていた。

 この四肢がまったくのこわばりを失うまで潰してみたい。もしくは従順さの底にあるものに触れたい。けれど三成はその手段がわからない。

「石田殿」

 幸村がつぶやく。拳を解いて、三成の下腹へ伸ばす。

 ついに本性をあらわしたかと、報復に身構えた。

 しかし幸村は神妙な面差しで、瞼を閉ざしていた。

「ご無礼を」

 三成の寝間着をめくり、探るように股座へ届く。不慣れな手つきで下帯をほどこうとした。三成は意図が読めず、動けない。

 幸村が腕を回し、結び目をとる。あらわになった陰部へためらいがちに触れた。そこは、重たげに垂れるばかりではなかった。ほんのわずかに芯をもって、兆していた。

 息をつき、ほっとした様子で、幸村が両膝を立てる。奥まった場所が見えるようにし、囁く。

「覚悟はできておりますれば」

 彼の、本来ならば目に映るはずのない肉が、身体の外へ広がり盛り上がって、あふれてしまっている。支度をしておけという、大谷の指示だった。三成が閨事に興味などないからだ。「盟約の契りだ」と、ふたりは法螺で丸め込まれたも同じだった。

 暗がりの中、銀髪は沈黙する。切れ長の鋭眼に射竦められる。闇に滲むほど白い三成に、幽鬼を見ているようだと幸村は思った。透けて、いますぐ消えてしまいそうだ。彼の悲願が果たされたとき、その身体にはなにが残るのだろう。

 ただ掌にはささやかな温度があった。幸村にとってそれは、彼がまごうことなく、人である証しだった。腰を浮かせた不恰好な姿勢で、三成を招く。おそらく伏せて臀部を差し出すほうが易いのだけれど、正面からでなくては、彼を受け入れることにならない気がしていた。

 銀髪がゆっくりと、ためらいがちに動く。三成は秘所を凝視したまま、これは支配なのだろうかと考えた。差し出されたものを「奪う」と称するのもまた違うだろう。くすぶるように湧き上がる熱を名づけることができない。

 幸村は「お嫌ならば」と言って、手を離す。三成の息がつまる。その苦しさは胸からのぼり、両目のちいさな穴からあふれ出そうだった。

 押し殺すために、くつろげられた幸村の襞へあてがう。充分な硬さのない砲身を無理やり進めた。生あたたかさと、絞められる感触に眉をひそめる。

 しかし幸村は腹から力を抜くように弛緩していた。三成は不思議だった。あれだけ噛み傷に耐えていた男が、まるで安堵しているように見える。

 すべておさまりきった。幸村は彼の海綿に流れる血脈を感じ、三成はやわらかな肉壁に受けとめられ、互いの瞳をのぞき合っていた。

 ふ、と剛毛な眉がゆるみ、笑うので、三成は戸惑う。幸村が唇をひらく。

「貴殿の眼差しはいつも真っ直ぐでござるのに、なぜであろう、いまやっと見ていただけたようだ」

 鼻梁にかかった前髪をゆるやかに払われる。またとめどないあの熱が、咽喉の奥を焦がして声を奪う。

 誘われるように三成も腕を伸ばし、そっと胸の傷を撫でた。








  2011/5/21

 三成にとっての幸村と家康の違いについて考えていたら、家康はたぶん三成に情があっても、別の道をいく者同士という割りきれる心があって、三成にとってはそれが理解できない。反して幸村は、いずれ道が分かれるとわかっていてもまずは相手のすべてを受け入れてしまってから苦しむのかなと思いました。
 三幸R18アンソロジー寄稿と繋がる話。