おぼろ弦月










 甲斐の虎に注がれた酒が、はらわたへ静かな熱をともす。客間から退出し、外に面した廊下を歩く。離れた松明台で、火の粉がはぜた。

 武田信玄は兜を外して座す姿も威風があった。恰幅の良い体躯は身丈よりでかい斧を片手で振りおろす。口と顎にたくわえた厳めしい髭や、幾多の人心を透かしてきた眼光が豪胆さに満ちている。他愛ない会話の最中でもわずかな隙さえ見せなかった。

 今またよみがえり、思わず口角を上げる。臆すものか。俺はまだ若い。世故に長けた狡猾なオッサンと渡り合えるたのしみに身震いした。

 徳川が織田亡き尾張にくだった。

 単身で陣を散らす姿は南蛮渡来の兵器にも勝り、戦国最強と称される本多忠勝を擁しながら傘下に入った。豊臣の力が確固たる証だ。

 頭目は本多にも劣らぬ巨漢の武将であり、参謀竹中半兵衛は忠節に尽くす怜悧な策士ときく。

 天下統一のため、北へ進軍することは必定。

 徳川に重ねて侵攻し、睨み合いを続けていた武田から和睦申し入れの書状を受けた。北条と同盟があるとはいえ戦力の不利、耄碌した氏政が豊臣へ寝返ることも考えられる。後援として未だどこにも属さぬ伊達を選んだのだろう。

 俺は応じる旨を自らしたため、送り返した。

 伊達家は姻戚関係により、奥州全土に渡って有力名主と親族血縁の誼をかわしている。しかし一つ所で治めているのではない。まずは身内との領土抗争に勝ち得なければ、日の本を統べるなど夢語りであり、兵の集めようもない。

 肥大した豊臣に、防護の壁一枚。もしくは、賢君と名高い甲斐の虎へ恩でも売っておければいい。

 日が高いうちに調印を済ませた。あの重鎮がわざわざ国を空け、山道を越え、米沢まで登城したのだ。酒宴をひらき、最上等の客間へ通したのち、差しで話をした。

 戦の趨勢、灌漑の法、果ては詩歌にまで至ったが、こちらの出方をうかがう言葉と目つきは、やはり食えない。

 高揚を抱えたまま、俺は寝所へ進む。霧のような雲が星を遮っている。ふと、暗い庭で物影が動いた。

 片側が失われていても、夜目は利くほうだ。凝らして見つめる。人らしい。砂利を踏む音がし、拳を交互に突き出している。

 不審に思ったのは束の間だった。荒い吐息がきこえるところまで近づき、廊下から声をかける。


「真田幸村」


 長い後ろ髪を束ねた背が跳ねる。


「おお、政宗殿。まだ眠られていなかったとは」


 傍らへ走り寄って来る。俺は呆れながら口をひらいた。


「アンタは寝る前まで鍛錬か」


 さすがに戦装束ではなく、着流しの姿だった。武田信玄に同道し、紅蓮の鬼として知れた軍将だ。じかに剣を交え、実力も、六爪を抜いたこの腕が認めている。

 私的な縁も深く、そう離れていない部屋に床のべた筈だ。


「汗だくで布団に入るつもりかよ」

「申し訳ありませぬ。目が冴えておりましたゆえ、じっとしては居られず」


 あわてて顔のしずくを拭う。「馬鹿、変わらねえだろう」と言ってやると、困ったように眉間へ皺が集まる。生真面目な男だ。


「気にするな、アンタはいつだって暑苦しい」


 笑いながら揶揄する。真田は小さくうなり「では、お言葉に甘えて」と続けた。


「斯様な刻限でなければ稽古を願いたいくらいです」


 横へ向き、握った手で虚空を突く。捲くった袖から、鍛えられた腕が伸びる。太くない。しかし筋肉の隆起は、はっきりとしている。


「折角の、貴殿とまみえし機会」


 少し目尻の上がった大きな両眼だ。刃を打ち込み押し合うたび、対峙してきた。黒々とした瞳に、強い炎が宿っている。武田信玄の持て成しに尽くして、今日一日ろくな会話も交わしていなかった。俺の全身で血が煮え立つ。肌を刺激し、粟を生む。

 いくさ場の剣など、人の脂で使い物にならなくなっていく刀そのものだ。敵を薙ぎ払わねば、命を落とす。斬るほどに、武器の重さは薄れていく。なぜ戦っているのか、真意もありはしない。

 そして誇りを謳うもののふには、勲功への執着と、死に花を咲かさんとする後ろ向きの覚悟が隠れている。

 しかし真田幸村の槍は濁りがない。ただ磨き抜いた己の精神をぶつけ合いたいという覇気に溢れている。勝たねば明日へ残れぬこの乱世で、あまりに純粋だ。甘い。そして、危うい。

 だが、いくさをたのしむ俺の本質こそ、同じ場所にある。だから唯一無二の相手にして、胸が躍る。

 脈打つ鼓動を鎮めるように息を吐き、答えた。


「Just what you say. 今からじゃ、ちょっとした騒ぎになっちまうぜ」


 真田は拳をおろし、わずかに残念そうな素ぶりを見せた。すぐさま、わかっていますとも、と言わんばかりに顔を上げる。


「政宗殿は何をなさっておられましたか」

「虎のオッサンと一杯やったところだ」


 大将の名を出した途端、喜色が浮かぶ。


「それは、某もご同席叶えば、学ぶべきことの多き杯事になりましたでしょう」


 瞳が孕む炎は、激しさのない光明となって揺れる。心底師父を敬愛する眼差しだ。

 俺は時々、自分の空洞に立たされる。背中を護り、諌め導く存在があるというのに。その右目は言うだろう。「欠けているのではございません」。天に立つ者として幼い齢から、この年端の近い若輩が、未だ知りもしない人の常闇を眺めてきた。

 伊達政宗は己の信じる道のみを往く、それだけのこと。


「お館様は貴殿を一廉の武将と極めておられる」


 真田は昂ぶりながら言った。


「此度の盟約もそれゆえかと」

「Ah」


 頷いて、あどけない双眸を見おろした。


「これで、アンタが手に入るかもしれねえな」


 武田からの要求に対してこちらはただ受けた。相応の条件を出しても構わない筈だ。血縁を結ぶのが早いが、あの甲斐の虎に泡を吹かせてやるのも面白い。いや。

 天下の次にほしいものなど、他にない。

 真田は瞼を上げた。瞬くと、鼻の下に手を当てる。


「なるほど、またご冗談を」


 歯切れのよい語調だった。


「某の忠義をこえた想い、この魂、武田ならぬお館様のためにございます」


 よくご存知でしょう、と続ける。そうだ。推し量るまでもなく、真田幸村は単純だ。

 俺は両腕を組み、身体を前へ傾げた。地面に立つ真田の鼻先から、双眸を覗き込む。額と額が触れる。


「マジだ、と、言ったらどうする」


 睫毛の一筋一筋を数えられるほど近い。眉が跳ねた。しかし色濃い虹彩はそれることなく据わっている。

 真田の口腔から吐息が漏れきこえた。消えるような笑みだった。


「本気にするな、とは、貴殿のお言葉でしょう」


 某も奥州の独眼竜と、浅からぬ付き合いでございますれば。

 真っ直ぐ、挑むように仰いで来る。俺は思わず、唇を震わせた。悟られたか、定かではない。すぐそこまで迫るものを押し殺す。

 ゆっくりと額を離した。


「そう、Jokeってやつだ」


 真田の表情が緩み、続けられた。


「慣れ申した」


 俺は面食らったあと、鼻から力を抜く。「そんな顔もするんだな」と呟けば、「政宗殿こそ冗句とやらに斯様なお話をされるなど、意外でございました」と返された。

 ふ、とまた息つき、視線を外す。

 アンタは馬鹿だ。

 武田を捨てるような男はいらない。俺の目指す先で凛然と佇む二槍。瞼の裏に焼きついて仕方のない姿。奪おうとも考えていない。

 だから確かに「悪ふざけ」だろう。けれど、わかってくれてもよかった。何もかもあるがままに捉え、怒り、傷つき、悩むような奴が、たったひとつの本音さえ、真に受けることができないのか。

 永遠の時間なんて、望んだことはなかったのに。


「とっておきの口説き文句だったんだぜ」

「はい?」

「いや」


 それとも、アンタ、わかってんのか。

 首をかしげた真田に背を向ける。左目にかかる髪を振り払い、廊下を歩む。もう少し進んだ先の角に、また松明の火がちらつく。

 あ、と細い声がきこえた。

 振り返ると、真田が天を向いている。おぼろの中から皓々と光の筋が差す。雲が流れた。切り落とした爪の形に夜空が白くわらう。


「政宗殿」


 鋭気に満ちた獣のような双眸がこちらを見ていた。


「今宵のように弦月の陰ることあらば、必ずやご期待に応えましょうぞ」


 武田の流儀にかけて、と続きそうだったので、俺は片手を上げ、緩く振った。










  2010/4 末